キリンとキリン

なんかよくわからない

作家かモデルか

こんにちはキリンとキリンです。

 

常々ここにも書いているんですが有安さんの「裸」という曲がホント好きでいつ聴いても新鮮なんですよ。なんというか生きていくうえでの難しさというか本当の私を…という感じが好き

 

それが前提なんですが、先日マンガの「ブルーピリオド」を読み、おや?と思うことがありました。その本は高校三年生がとあるきっかけから東京藝大を目指すがテーマなんです内容なのですが、大学受験に向けあくまでも藝大合格するという前提で芸術に向かい合うシーンが多いんです。

 

そして大学受験の課題の一つに「ヌードデッサン」があったのです。その主人公(男性)のとある視点から作品に向かう時に私もハッとしたんです。

 

男性って裸(女性)=性であって、なか得して気分になる。裸(女性)は綺麗とか美しいとか言わなきゃいけないと思っている。素を見せてくれる人は自分に嘘がない状態を晒してくれている。ざっくっりとこんな感じになっていると思う。

 

しかしこれはデッサンする側の視点であってモデル側の視点ではない。モデルさんは自分自身の裸に自信があるんだろうか?指定されたポージングで一方的に観察され描かれていく。作家さんの技法次第ではショックも受け受けることだってあるだろう。

 

モデル側の視点

 

そう考えたら私は有安さんの「裸」をデッサンする側から見ているのであってモデル側の視点では聴いていない。考えれば有安さんは生まれた頃からモデル側の人で自分のコンディションがどうであれ晒されて受け手の人の解釈で評価され続けて来た。

 

そもそも女性の裸体に関して男性の思う美しいと女性の思う美しい自体が違っている。

 

有安さんが唄う「裸」の世界観は男性の世界と女性の世界で大きく違って聞こえているのかもしれない。

 

実際の裸体という「裸」と精神的な意味合いの「裸」なのですが、見る側なのかモデル側なのかだけでも大きく聴こえ方が変わるもんだなぁと新たな「裸」の楽しみ方に出会えた気がします。

 

私はまだまだだなぁ